そのシャッターは軽いか重いか【GRⅢ作例あり】
写真を撮りたい。写真は素敵だ、と思って普段から写真を撮っているけれども、時々「こんな風に写真を撮ってていいんだっけ」ということも考えてしまうのが写真に関わっている素人の性(さが)でもあると思う。
要は「シャッターを切るときの気持ちに無頓着すぎると、その無頓着さに自分で恐ろしくなってしまうことがある」という感じ。
特にこれは撮った写真をPCに取り込んでざっと見ているときにあまりビビッと来る写真が少なかったとき、すなわち撮れ高が少なかったときによく考え始める。あれ、私このとき何考えて撮ってたっけ。なんかもっと構図とか露出とかしっかり考えて撮らないとだめかもしれない……、このままでいいのかしら…。
結論は「いいんだよ!」なのだけれども、ときどきこの思考の沼にハマってしまうことがあるので、一度少し考えてみようと思う。
自分がシャッターを切っているときに思うことは基本的には「なんかいいな」である。なんかいいな、と思ったから写真を撮る、というのが私のなかで最低限のルールとなっている。
これは実はとっても大事で「なんか良い」という感覚が先で、そのあとで「何がよかったんだろう」と思考がついてくる。できればまずはその感覚で先にシャッターを押す。これはきっと軽いシャッターだと思う。
で、少し考えてから「思考」がついてくる。何がよかったんだろう。何に惹かれた?それをちょっと考えて、それがちゃんと写真のなかに入っているかどうかを確認する。これはちょっと重めのシャッター。
難しいのは重めのシャッターを切っていると、どんどんどんどんシャッターを重くなってしまうということ。構図は……とか露出が……と考えているとどんどんシャッターは重くなる。私のような素人はここが遅いので、重くなりすぎる。重くなりすぎると私はシャッターを切るのを止める。きっとプロはここでシャッターが重くなりすぎないうちに決めきれるんだろうなぁと思う。
GRⅢは28mmなので、ときどき軽いシャッターで切っていると、写った写真が広角でなにに心動かされたのか、ということが分からない写真ができるときがある。これはちょっとした技術不足だと思う。
渡部さとるさんが以前動画で「ぼくはどんどんクロップしちゃう。そうやって気軽にやったらいいよ」とおっしゃっていてから私もどんどんクロップするようにした。(プロの方がいうと説得力があって、私もハードルが下がる。ありがたい)
35mm、50mmにすると主題が明確になる。あ、この心の動きならクロップしちゃおう、と思って実行するまでを以下にスムーズに早くできるか、ということだと思う。
一方で身近な心動いたものをぱっと捉えることができて私はこの画角がとても好きだ。子供が机の向かい側で何かを美味しそうに頬張った、となりで座っている娘の髪が光にあたってキラキラしている。向かいの席の妻が料理をみて笑顔になる。
28mmの画角は自分のパーソナルスペースにいる人を撮る画角だと思う。
そういう意味でGRⅢは本当にスナップシューターなのだと思う。一瞬を捉える。この「一瞬」っていうのは対象物のことではなくて、撮影者の心の動きなのだと思う。一瞬の心の動きについてきてくれる機動性、小型さ。
「これでいいのかしら」という思考に囚われそうなときはいつも「これでいいのだ」と思っている。まずは心が動くことに突き動かされて写真を撮るようにならなきゃ。心の動きに追従できる技術を少しずつ見に付けていこう。私の場合は、GRⅢが相当に底上げしてくれているけど。
ちょっとだけ、と唱えながらなんとか子供を寝かせたい
「ちょっとだけ」という魔法のコトバが我が家にはある。
お昼寝をするのは嫌だ。夜寝るのも嫌だ。せっかくいま楽しく遊んでいるんだから、この楽しいのをもっと続けたいんだ。嫌だ嫌だ。
世にいう「イヤイヤ期」が我が家にも来ている。妻も私もイライラが限界にきて、もう知らないよ、という反応をしてしまうこともある。特に寝る前が一番ひどい。たぶん眠気も来て本人も訳が分からなくなっているんじゃないかと思う。
けれども最近少しだけ攻略方法がわかってきた。
100発100中なんてものは育児において存在しないわけだけど、これは比較的ヒット率が高い。
それが、「ちょっとだけ」だ。
一番カンタンなパターンはこう。
「寝るの嫌だあ!」
「そっかぁ。ガッツリ寝るのは嫌だよね。でもちょっとだけ寝てみない。ちょっと寝て、起きたらまた遊ぼうよ」
うまくいくときはラッキー。兎にも角にも「寝る」のハードルが高い。これを「ちょっとだけ」と低くし、ついでに「パパも一緒に寝るから」みたいな感じにすると、そこそこ「うん」となることもある。
でももちろん「ちょっとだけでも寝るのはいやだ!」となることも多い。
そうなると今度は別の「ちょっとだけ」をやる。今度は「やりたいことをちょっとだけ」のパターンだ。
「そんなに寝たくないのか。寝ないで何するの?」
「おままごとするの!!!」
「そっかぁ。じゃあ『ちょっとだけ』おままごとする?」
「…うん」
「でもおままごと、『ちょっとだけ』だよ?お約束できる?」
「うん」
で、意外と一緒におままごとしていると、ものの2~3分程度で本人が満足することがある。なんだったら意外なことに「このお買い物が終わったら一緒に寝ようね」と自分で終わりを決めてくることすらある。不思議だなぁ。
これを我が家では「ちょっとだけ、で気を済ませる」と言っている。
子供のイヤイヤ期やわがままに親が忍耐力を発揮しつつ付き合う、というのが基本路線だと思うけれども、親がどういう対応をしているのかを子供は本当によく見ているのだと思う。
先日、家電量販店にいったときに、娘がおもちゃコーナーへ行きたがった。私は私でカメラコーナーに行きたくて(これはFUJIFILMのX-T5の実機をどうしても触ってみたかった。ちなみにすごくコンパクトでいい重みで私は一瞬でそれに魅了された)、エスカレーターで登りながら、どっちに先にいくかで娘と押し問答になった(3歳児となにをそんなにぶつかるのか、という呆れはご遠慮ください。あるよね、そういうこと、あるよね?)
そのとき、娘が言うのである。
「じゃあパパ、ちょっとだけ、カメラ見に行こう?ちょっとだけ。ちょっとみたら、私と一緒にアンパンマン見に行こう。だから、ね?ちょっとだけ」
深淵を覗き込むとき、深淵も私達を覗き込んでいるわけである。
そんな深い話じゃなく、子供の学習能力というか、普段自分がどれだけ「ちょっとだけ」を連呼しているのか、思い知らされたという話。
おしまい。
いきなり否定されたらいやだもんね、という話
娘が「どんぐり探す」といって公園を歩き出した。私は「おっけー」といって一緒に歩き回る。
どんぐりっていつまで落ちているものなんだろう?パッと見渡す限り公園にはどんぐりはなさそうである。あれって秋じゃなかった?真冬にあるっけ?
そういった言葉はぜんぶ飲み込む。
娘はずんずん公園を進んでいく。
前はあの木の下にあったから見に行ってみようか。
いいよいいよ。
パパ、ここ高いから娘ちゃん登れないのよ、抱っこして
ほいほい。ここにあるかな?
あるかな?あるかな?あったらいいな~
結局どんぐりはなかった。
一通り公園を全部歩き回った娘は「どんぐり、ないみたい」と結論づけた。私も「そうみたいだね」と返す。
娘ちゃん、もしかしたら寒すぎてどんぐりの時期おわっちゃったのかもしれないね。
そうね。
前はここらへんにたーくさんあったのにね。
前はたくさんあったよね!ここにばーってたくさんあった!
ひとしきりたくさんのどんぐりを想像して興奮したあと、娘はあっさりと「シャボン玉やろっか」と次の遊びへと移っていく。
いきなり会話を否定から始められたらイヤだもんね、ということは私が友人と子供の会話を聞いていて気づいたことだった。
その友人はどんなこともまずは「へ~そうなんだ」と受け止めていた。例えそれがどんなに突拍子もないことだったとしても、まずは「あ、そうなの?」と返す。ちゃんとあなたの言ったことを受け取ったよ、と返すのが絶妙にうまかった。
例えば保育園のお迎え時にいきなり子供が「今からディズニーランドに行きたい」と言い出す。「え、それは無理よ」と返したくなるが、友人は「あ、そうなの?ディズニー?」とまずは返す。続いて「ディズニーで何したいの?」と聞く。「ベイマックスのる!」と子供。「ベイマックスか~、あれいいよなぁ。でも今日はちょっともう夜だから今から行くの厳しいかもしれないなぁ」「え~」「今度いつ行くかママとも一緒に相談しよっか~」「うん!」
穏やかな会話だな、というのが友人の会話の特徴だ。
そして会話が続いていく。子供がぐずることが少ない。
「ディズニーいまから行きたい」「無理よ!」というのは会話というよりは主張の応酬だ。行ける/行けないでいえば、「行けない」で確定なわけだが、そこに行き着くまでに会話するかどうかだなぁと思う。
先日保育園にお迎えにいったら、娘とその友達が駆け寄ってきた。「ねえねえ見てみて!今日公園でどんぐり拾ったの!!!!」
え、まじで?この前ネットで調べてみたら、どんぐりは11月下旬くらいまでって書いてあったけど、と思って2人が差し出しているビニール袋を見ると、葉っぱと土にまみれたボロボロのどんぐりが大量にはいっていた。
あ、、、埋まりかけていたやつ掘り起こしたのね…。
横でみると娘の友達のお母さんが疲れ切った顔でそのビニール袋を見ていた。
…わかります。このどんぐり、このあとどうすんねん…。
どうしましょうね、と2人で笑い合ってから、それぞれの子供からどんぐり発見までの冒険譚を聞くことにした。
そんなお話。
子供と一緒に喜び合いながら生きていく
娘はゲラだと思う。
些細なことで笑って、体を折り曲げて笑い転げている。5歳になる甥っ子と3歳の娘に「だるまさんが転んだ」を教えていたら、いつのまにか道を転がる遊びに変化していた。「だるまさんが、だるまさんが、、、」といいながら走り抜け「ころんだ!」といって甥っ子が道に転がる。それをみて娘が爆笑する。体を折り曲げて笑い、すっと立ち上がって「ころんだ!」といって自分もそこで転がる。転がりながら笑ってしまい起き上がれない。二人してずっとそれを繰り返して笑っている。
(ちなみに洋服がしこたま汚れたため、甥っ子の母親である実姉には私がちょっと怒られた。)
子供が生まれて自分でも予想していなかった出来事として、私もゲラになった。
道の真ん中で30台半ばの大人が転がり始める勇気はなかったが、一緒に笑うことはできる。一緒にいる大人が笑っているのをみると、子供も安心してさらに大笑いを加速させていく。
この笑いや笑顔が倍々になっていくのが面白くって、子供が笑い始めると一緒に笑いながら意図的に目を合わせてみたりするようになった。お互い目があって、ちょっとフフっとしてから、あはははと大笑いがどんどん出てくる。面白い。最初はちょっとした笑顔だった大人すらも子供の笑顔につられて本気の笑いにどんどんなっていく。
子育てとは与える側面もあるし、与えられる側面もある。けれども、さらに「一緒に」という側面もあるのだと思う。矢印がお互いに向き合う関係とは少し違う。いうなれば同じ円のなかにはいるような感じ。
「笑い」という円のなかにはいって、一緒に笑っていると、私も子供の遊び仲間に入れてもらえた感じがしてとても心地よい。子供も仲間認識して、ある意味失礼なことまで言ってくる。「一緒に」が実感できると、「子供目線で」というような堅苦しい表現は消えて、いつのまにか同じものをみて、似たような感情を抱いていたりする。
そうやって私は「子供時代」の一部を追体験しているのかもしれない。
子育ての面白いのは、これかもしれない、と思う。もちろん私は30歳を超えたおじさんなので、本当に子供と同じ経験ができているとは思えない。ただそれでも一瞬でも「子供時代」の気持ちが、想像ではなく体感として体を通り抜けていくことがあるような気がする。
これは体感なのでもう論理的な説明なんかない。
そして私はただただその感覚が好きなのだと思う。そうやって子供と一緒に喜び合いながら生きていきたいと思う。子供が大きくなっても同じ気持ちでやっていけるのだろうか。それは子供が大きくなってから考えることにしようと思う。
シャッターを切る時に願っていること
子育てとGRというワードで検索するといくつか記事が出て、総じて読むとAFが甘いという話だった。たしかに動き回る子供に対してのオートフォーカスはもっとキビキビしたものが欲しくなるのかもしれない。
なんとなく考え方は2つもっている。
1つはGRの機能フル活用のパターン。フルプレススナップの活用だ。でも私はいつもF値を5.6以上にしていて、スナップモードでピントを固定2mくらいにしておく。そうするとフルプレススナップで近い距離での娘の活動にはだいたいピントが合うような気がする。でもまあこれはできたり、できなかったり。
もう1つは「もういっそのことピンボケも楽しんでしまおう」という気持ちだ。
GRを購入する前に、いろんな人のレビューを読んでいるときに「ピンボケも含めて楽しみましょう」という言葉があって、それがストンと自分の真ん中に落ちて購入に至ったと思っている。
人の心を動かす「ピントのあった綺麗さ」というのはあると思う。新海誠の映画における映像美のようなものは「美しい…」という感動を引き起こしていると思う。私は新海さんの描く夕焼けが本当に素敵な描写だと思う。
一方でそうじゃない人の心を動かすものもあると思う。ピンがボケていても、その瞬間の楽しそうな雰囲気がとれていれば、その写真に写り込んでいる楽しさだけで、人は心を動かされるのだと思う。そういう種類の描写もあって、そういうのも好きだなぁと思う。
「こういう写真の表現しか認めない!こっちのほうがいい!」というほどどちらかに寄っているタイプではないので、ある意味どんな写真がでてきても「おー!いい写真!」と喜べるのはお得かもしれない。
とはいえ、わざとAFを外すようなこともしないので、できるだけ枚数をたくさん撮ってピント合う写真が撮れるようにしてみたりもする。
そういう意味ではGRは私にとって「きれいにピントがあっていなきゃいやだ病」から脱却させてくれて、私をより「写真を楽しむ」という点において進化させてくれたカメラなのかもしれない。
カメラのシャッターを切りながら、願うのは「ピントがあっていますように」ということよりも「この楽しそうな表情や景色を切り取れていますように」ということだと思う。その思いがちゃんと写真に載っていると、それはピントが外れていてもとても素敵な写真になるんじゃないかなぁと思っている。
そういう意味で「あ!」と思った瞬間にカメラを起動して写真がとれるGRは最高のカメラだ。
(きっとその「切り取れる」確率がプロのほうが高いのだとおもうけれども、私はシャッターチャンスの多さでしばらくは勝負しようかな)
写真って一瞬をずーっと楽しめるから面白い
子供が生まれてから時間の流れが早くなった
年齢を重ねると時間の流れが早くなる、とはよく言う。これは新しく経験することが少なくなると時間の流れが早くなる、ということらしい。たしかに小学生のときには新しいことばっかりで1日がとっても楽しく、1年の思い出もたくさんあった。社会人になってからは気づくと3ヶ月、半年、1年が過ぎているということも多くあり、この言葉の真実味を実感する。
そんな30代なかばの私にとって子育ては「新しいこと」だった。育休を約1年とり、初めてやるおむつ替え、沐浴、調乳、ご飯づくり、寝かしつけ、ワクチン接種…。数えればきりがないほど、毎日が新しいことで溢れていた。
怒涛の「新しいこと」ラッシュで今度は逆に記憶が飛ぶほどだった。必死に色んなことに対応している間に、気づいたら娘は首が座り、寝返りをし、ハイハイを始めていた。
年齢を重ねると時間の流れが早くなる、というのは単純に記憶力が劣ってくるだけなのかもしれない。
必死になっていたときを必死にならなくなった時に思い出したい
そんな時に写真を見ていろんなことを思い出した。初めて沐浴させたときの娘の気持ちよさそうな顔、一方でへっぴり腰になっている自分。ミルクをあげているときの幸せな気分。ポジティブなことだけじゃない。夜泣き対応をして迎えた寝不足の朝、泣き声にイラッとしてしまったタイミング、育児の認識違いに夫婦で口論した時間。
写真はそういったことを思い出させてくれる。
面白いのは写真に写ってないことも思い出せてくれるところだ。
祖父が娘を抱っこしたときに私が感じた気持ち。娘が他の人の抱っこを拒否して自分のところまで必死に来たときの嬉しかった気持ち。この食事を食べているとき妻はどんな表情をしていたっけ。
一瞬で過ぎてしまったことを、あとから思い出させてくれる。呼び起こしてくれる。
別に「この写真からどんなだったかを思い出しなさい」というタスクにならない、ということも重要だ。写真をみた瞬間、同時多発的に色んな情景や感覚が呼び起こされる。その動きは私にとってとても心地よい。
だから私は写真が好きなんだと思う。
心地よさの正体は、追体験できることと同時に、自分の状況を冷静に見返せるからだと思う。思い出にも浸れるし、あのときは必死で気づかなかったけど、これはこれでこういう機会だったのだなぁと冷静な気持ちでみることができる。自分の人生に再度新たな一面を見出したり、忘れかけていた何かを再確認したりすることができる。
そうやって何か私は自分の人生に強度を持たせているのかもしれないなぁと思う。
いや、そんなに毎日深く考えているわけではないんだけれども。
写真を見返すだけで「いいなぁ」という気持ちになれる毎日って結構幸せだと思う。そういう日々の幸せの重ね方がたぶん私は好きなんだと思う。
我が家ではカレーパンマンとシンデレラとミニーが一緒に住んでいます
娘は最近ごっこ遊びが好きである。すぐに別のキャラクターになりきった受け答えをする。ディズニーであればミニーからエルサ、アンパンマンであればドキンちゃんにも食パンマンにもなる。
やっかいなのは人にもごっこ遊びをナチュラルに当てはめてくることだ。「あたしミニーよ」といった3秒後には「ねえミッキー?」と30代の父親に問いかけてくる。
こうなるともう乗っかるしかない。ここで乗っからないのは父親ではない。精一杯声を裏返しながら「なんだいミニー?」と返す。最近ちょっと喉の調子が悪いので、裏声をするとむせてしまいそうになるが、それを必死に抑え込む。
やっかいなのはこれが時を選ばずに開始されることだ。そしてこの遊びに父親が初期のころからナチュラルに対応しすぎたのがよくなかった。すでに娘にとって、ごっこ遊びを振れば親は必ず応えてくれるものになっており、対応してくれないと泣くのだ。「ミ゛ッ゛キ゛ー応えてよ゛お゛お゛お゛お゛」といった悲痛なぐずりが始まる。
私はリモートワーカーであり、保育園のお迎えは17時に私が行っている。そして保育園のお迎えのあとも仕事を1~2時間するのだ。娘はできるだけ妻が見てくれているものの、そうもいかないときがある。
その日はカレーパンマンだった。
部長のいるリモート会議で乱入してくる娘。幸いカメラはオフだった。「ねえ、カレーパンマン、バイキンマンをやっつけにいかない?」という軽やかな声はおそらくノイズキャンセリングのヘッドセットによってカットできたはずだ。一旦表情だけで今は仕事中であることを伝え、退室を促す。「ねえ、カレーパンマンってばあ」あかん、始まった。「カ゛レ゛ーバン゛マ゛ン゛~~~」これはマイクもノイキャンできない。素早くマイクのスイッチを切ってお話をする「ごめんね、カレーパンマンちょっとお仕事してるんだ」「何してるの?」「カレー作ってるんだ。もうちょっと煮込んでから一緒にバイキンマンやっつけにいこうか」「じゃあ先にアンパンマンと一緒に行ってるね」娘の手の中にはアンパンマン人形があった。あなたは誰だ?ミニーがバイキンマンをやっつけにいくんだろうか「うんお願い」セーフ。
さて、マイクスイッチをもとに戻して…
部長「カレーパンマン大変だなぁ」
スイッチ・オフになってなかったよね。そういうコトってあるよね。
ちなみに妻はシンデレラ。「ねえ、シンデレラ?」と問いかけられることが多い。なんかいいな。私はカレーパンマンかミッキー。まあ悪くない。
残念ながら妻も四六時中娘と一緒にいられるわけではない。「ちょっとトイレ行ってくるね」「…えっ…娘ちゃんも一緒に行く!」「いや、トイレはひとりでさせて」バタン
「うわあああああ~ん、シンデレラぁあああ」
慌ててフォローに入る。「娘ちゃん、娘ちゃん、シンデレラもトイレに行くときあるのよ」自分の発したパワーワードに笑いそうになる。「やだああああ、シンデレラあああ」とトイレのドアにすがりつく自称ミニー。「シンデレラああああ、おしっこ?うんち?」やめなさい「トイレ!!!」中から妻が叫ぶ。よかった一線は守られた。
我が家ではカレーパンマンとシンデレラとミニーが一緒に住んでいます。