シャッターを切る時に願っていること
子育てとGRというワードで検索するといくつか記事が出て、総じて読むとAFが甘いという話だった。たしかに動き回る子供に対してのオートフォーカスはもっとキビキビしたものが欲しくなるのかもしれない。
なんとなく考え方は2つもっている。
1つはGRの機能フル活用のパターン。フルプレススナップの活用だ。でも私はいつもF値を5.6以上にしていて、スナップモードでピントを固定2mくらいにしておく。そうするとフルプレススナップで近い距離での娘の活動にはだいたいピントが合うような気がする。でもまあこれはできたり、できなかったり。
もう1つは「もういっそのことピンボケも楽しんでしまおう」という気持ちだ。
GRを購入する前に、いろんな人のレビューを読んでいるときに「ピンボケも含めて楽しみましょう」という言葉があって、それがストンと自分の真ん中に落ちて購入に至ったと思っている。
人の心を動かす「ピントのあった綺麗さ」というのはあると思う。新海誠の映画における映像美のようなものは「美しい…」という感動を引き起こしていると思う。私は新海さんの描く夕焼けが本当に素敵な描写だと思う。
一方でそうじゃない人の心を動かすものもあると思う。ピンがボケていても、その瞬間の楽しそうな雰囲気がとれていれば、その写真に写り込んでいる楽しさだけで、人は心を動かされるのだと思う。そういう種類の描写もあって、そういうのも好きだなぁと思う。
「こういう写真の表現しか認めない!こっちのほうがいい!」というほどどちらかに寄っているタイプではないので、ある意味どんな写真がでてきても「おー!いい写真!」と喜べるのはお得かもしれない。
とはいえ、わざとAFを外すようなこともしないので、できるだけ枚数をたくさん撮ってピント合う写真が撮れるようにしてみたりもする。
そういう意味ではGRは私にとって「きれいにピントがあっていなきゃいやだ病」から脱却させてくれて、私をより「写真を楽しむ」という点において進化させてくれたカメラなのかもしれない。
カメラのシャッターを切りながら、願うのは「ピントがあっていますように」ということよりも「この楽しそうな表情や景色を切り取れていますように」ということだと思う。その思いがちゃんと写真に載っていると、それはピントが外れていてもとても素敵な写真になるんじゃないかなぁと思っている。
そういう意味で「あ!」と思った瞬間にカメラを起動して写真がとれるGRは最高のカメラだ。
(きっとその「切り取れる」確率がプロのほうが高いのだとおもうけれども、私はシャッターチャンスの多さでしばらくは勝負しようかな)