写真には「写真以外」が必要なのかもしれない(GRⅢ)
幡野さんとワタナベアニさんの対談をYOUTUBEで見た。
とっても面白かった。まだの人はぜひ見てみてほしい。ちょっと長いけど、なにか作業しながら聞いたら全然あっという間に聞き終わりますよ。
元々私は幡野さんの考えは好きで、Twitterもフォローしていて、時々リプをいただいたりして喜んでいるファンだったりする。なので、幡野さんが話している内容は今までも聞いたことのある内容に近かった気がする。いわゆる写真を撮るということを多くの人が勘違いしているのでは、ということ。
これは私の写真に対するハードルを下げてくださっていて、私が写真を撮るときに変なことを意識したりせずに済むのがとてもありがたい。
なんていうか力を抜いて、偶然でもいいので撮れた「お、いいかも」という写真を素直に好きになれる感じは、これは幡野さんに作っていただいた感覚だと思っている。
一方でワタナベアニさんの考えが、この対談ではとっても面白かった。
大変申し訳無いのだけれども、私はワタナベアニさんをこの対談で初めて拝見した。
ちょっとヤンキーみたいな怖い人かな、と外観で判断しはじめていたのに、この方とても言語化が素晴らしい方でした。
ちょっとおもしろかった発言を少し切り取ってみます。
”ものを表現するって全部が一緒で 絵でも音楽でもダンスでも何でも一緒だと思うんだけど 自分がこうしたいっていうものが世の中に無い 自分が見たいものが世の中に無いから 自分がそれを作るっていう自給自足の考え方だと思うのね”
”美しい空って写真にしたら何パターンもあるけど どう美しいの?とか 切ないのとか儚いのとかいろいろあったりするけど その精度がない人が写真を撮っても それをクリアできない”
"本も読んでない、映画も見てない、演劇も見てない それで写真という何か表現をしようと思っても それは写真雑誌で見たものの真似ぐらいしかできないでしょう"
”何撮りたいか分かりませんみたいな人いるじゃんたまに 何撮りたいか分かんなかったら 買わないでいいよと思うんだよね リコー以外 GR以外は買っちゃいかんですよ”
写真というものは簡単に撮れるものだから、簡単にシャッターを押せばいいんだけど、意外とその簡単な作業の果てに出てくる写真ってのが、その人の持っているものを反映してしまっている、って話かなと思う。
なので、意外と自分がインプットのない薄っぺらな人間だったりすると、それがバレちゃったりするのかもしれない。
流行をおっかけているだけの人間で、人からの視線や評価だけを気にしているだけの人間だったりすると、写真は…なんというか…弱くなるのかもしれない。
人間的に豊かになる、というのは、効率的なことを考えたら不要なことかもしれないけど、なんとなく人生には必要なことな気がする。
あ、でもこれ私まだロジカルに説明できないかも。
自分には必要だと思っているので、映画も見るし、演劇も見に行くし、美術館も見に行くし、写真展も見に行ったりする。けど、必要性を他の人にも説明するのって少しむずかしいかもしれない。なんかどこかで改めて考えてみよう。
こうやって積み上げたものがもしかしたら自分の写真に少し反映されているのかもしれない、と思うとなんだか根拠のない自信はついた気がする。
ワタナベアニさんは「精度」という言い方をしていたけれども、私はよく「解像度」という言い方をする。
インプットがないと、理解が及ばないんだよね。引き出しがないと理解ができない。
きっとまだまだ世界は私がまだ理解できていない美しさで満たされていると思うし、それを今後も時間をかけて知っていきたいと思っている。
世界の美しさを少しずつ理解して、それが自分の写真に少しでも「私らしさ」として反映されていくことができたら。そしてそれが形として軌跡が見えるようになったら。それはとてもおもしろいことかもしれないなぁと思うのです。
おしまい。
料理と家族と写真【GRⅢ作例】
料理が好きだ。
いきなり写真と全然関係ない話題からはじめてしまうけれども、私は料理が好きだ。そして料理という作業に私自身が救われている部分が多い。
我が家では料理はほぼ私の担当となっている。妻がうつ病になってから、妻は料理ができなくなった。私は必要に駆られて料理をするようになり、そして育休をとったタイミングで三食すべて作って回せるようになった。
料理は面白い。なによりも料理はちゃんと完結する。これがいい。
仕事というものはどうしても翌日に持ち越したり、誰かのボールになったところで停滞してしまったりして、すっきりしないまま終わっていない状態で長時間過ごすことに鳴ることも多い。
一方で料理は完結する。何かを作り始めれば、料理ができあがってそれが人に食べてもらって終わる。もちろん端材がでたり、面倒な鍋洗いがあったりと面倒な作業が発生することもある。けれども、料理自体は作り終えることができる。
この完結する作業というのが妙にすっきりとしてストレス解消になることがある。
「よっしゃ~できた~」という達成感が確実に得られる。私は仕事に煮詰まったときほど料理に救われている気がする。
そして料理は簡単にスキルアップできる。
このスキルアップというのは、包丁で切るのがうまくなるとか、そういう技術面だけではなく、単純に作れるレシピが増える、ということも含む。今日はカレーを作ったが、明日は入れるルーを帰るだけでシチューができたりする。そうすると私はカレーも作れるし、シチューも作れるわけだ。こうやって「作れるものが増える」というスキルアップはいとも簡単に実現される。
実はこれは楽しい。
以前はパスタしか作れなかった(しかも既存のソースと混ぜるだけの)私が、色んな種類の料理を作れるようになっていく。これを成長と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。
そう、料理は簡単に成長実感を連れてきてくれるのだ。ありがたい。
そして効率化も楽しい。
同じ料理が作り慣れてくると、だんだん作業が早くなってくる。一つ一つの作業が早くなるというよりは、同時並行できる作業が増えてくる。
以前は単一の作業を続けていくことしかできなかったが、今だとこれを炒めている間にまな板を洗ってしまおう、という感じで同時に片付けもできてしまったりする。
2~3品作る場合も、どこで1つの料理から少し手が離せるか、その間に別のどんな作業をしてしまうか、が頭のなかで考えられるようになること、それ自体が面白い。
そうやって料理を楽しんだ私は、時々自分の料理を写真にとっておく。
日常に溶け込みすぎた料理という作業は、放っておくとなんの印象もなく過ぎ去ってしまう。
がんばっていた記憶と、美味しかった記憶、料理が楽しかった記憶、それらはぼんやりと残っている。これを写真に残す。そうするとなんてことない「ただの家庭料理」の写真がこれらの記憶と相まって「家族の歴史」のような様相を呈してくる。
失敗した豆腐ハンバーグも(水気が多すぎて崩れた)、焦がしてしまった塊肉も(中に火が通ったか不安で)、やらかしてしまった最初は「ぎゃー」という感じだったのに、あとから見るとまた違った観点でみることができる。
もちろん料理だけじゃなくて、料理を食べて美味しい美味しいと言ってくれる妻と娘の写真もとっておく。今の家族の肉体的な身体を作っているのは間違いなく私の料理なのだなぁと実感したりする。
もちろん料理が面倒なときもあるんだけど、それでも妻と娘が喜んで食べてくれて、私も作ることによって支えられているところがあったりして。
まさか自分がこんなに料理好きになるとは思わなかったけど、料理っていいよね~と思っている。
また写真もたくさん取ろう。失敗した料理でも勇気を持って。
下手に記録を意識すると面白くない写真になってしまうので、自分で料理つくって心が動いたときにまたそっとシャッターを押すことにしよう。
おしまい
「お姉さん」になった長女に写真で愛情を伝える話(GRⅢ作例あり)
とっても久しぶりのブログになってしまいました。
実は次女が産まれ再度育休をとることにしたのですが、育休をとるために引き継ぎやらなんやらで2月~3月がとっっても激務でした。
ツイッターで泣き言は言えども、ブログはできない、という感じ。
ようやく落ち着いてきたので、久々にブログ再開します。
このブログは元々文章を書くことに慣れようと思って始めました。
人に読まれやすい文章ってなんだろう。と考えながらも頭でっかちにならずに、まずは量を書いてみよう、というところから始めました。
テーマだけ「写真」と「家族」ということに絞っています。
そんな中、家族が増えたわけです。第二子次女の登場。
私は二児の父親になり、長女はお姉さんになりました。
この「お姉さん」というものに対して私もそして妻も並ならぬ注意をしていました。
やはり諸先輩方から「第二子が生まれると第一子は赤ちゃん返りをする」とか「第一子への対応がおざなりになって寂しさを覚えてしまうようだ」とか色々聞かされていたためです。
私自身は姉がいる第二子(末っ子)なので、自分に経験はありません。しかし妻は4人兄弟の一番上。いつも「お姉ちゃんだから」という理由で理不尽なことが多々あったようです。
「私はなにかあったら長女ちゃんの味方をすると思う」と次女をお腹に宿しながら息巻いている妻はなんだか面白い構図でした。
そんなわけで、長女優先方針が我が家では決まりました。
妻も私も、次女は産まれたばっかだったら相手が誰でも今の段階じゃ分かりはしないだろう、と割り切っています。次女が抱っこしてほしいとき、それは相手は誰であろうとも問題ないってことです。産まれてすぐにママっ子になるわけじゃありません。もしママばっかり求めるならパパの抱っこの仕方が下手くそだってことだと思います。
まあ実際抱っこは私のほうがうまいのですが(笑)
というわけで、妻が次女を抱っこしているときに長女が抱っこを求めたら、そっちが優先。次女はあっけなくパパのほうに抱っこを移行し、ママは長女を抱っこします。
そういう体制になりました。次女が人の判別がつくようになったら、またやり方を変えるかもしれません。
あとはちゃんと言葉で伝えること。これを意識しています。
次女ちゃん可愛いね。長女ちゃんも可愛いよ。長女ちゃんのこと好きだよ。という内容を恥ずかしげもなく伝えること。意外とこれが一番効きます。あぁ3歳児ってちゃんと言葉を理解して、内容をちゃんと受け止めているんだなぁと実感します。
ちなみにこのときに「写真」が結構役に経ちます。
私は写真を結構な量撮るわけですが、それを選別したあと、iPadで表示させながら家族みんなで見たりします。
このときに「お、この写真いいね。長女ちゃんが可愛い」とか「この長女ちゃんいいね」とか写真越しに長女への愛情を表現することができるのです。
言ってしまえば写真って「興味の瞬間」だし、そういう意味で愛情表現って言ってもいいのかなって私は思います。
写真は愛情表現。
これ、いいですね。今日はこの辺で。
PENTAXのfilm projectに父が目を輝かせた話
親子でカメラについて話す。
それがとても楽しいひとときだったことが自分でも嬉しかった。
私のカメラ趣味は父親譲りだ。父は私達家族のアルバムを白黒で作り続けてくれていた人だった。家には引き伸ばし機があり、週末に父親の書斎に黒い布を張り巡らせて暗室にした。赤い光のなかで、プリントを水洗液に浸し、洗濯バサミに挟んで干すのが私の仕事だった。
父の作業の半分もわかってはいなかったが、露光量を調整する姿は職人のようで面白かったし、水洗液のなかで浮かび上がってくる写真は私にとって魔法だった。
懐かしい。
けれどもどれも小学生の思い出だ。
中学に入れば、私も反抗期を迎えて一緒に作業することはなくなり、父にカメラを向けられるのも嫌がった気がする。学校のイベントが楽しくなり、漫画を読みふけり、ちょうど携帯が普及し始めるタイミングだったので、新しく搭載された写メールの画質をみんなで話し合っていた。
父から再度カメラを教えてもらったのは高校生2年か3年になってからだったと思う。
使い込んだのはOLYMPUSのOM-4Tiだった。硬質なチタンの感触が好きだった。
AEモードが搭載されていて、シャッタースピードを気にしながら絞りを調整して、マニュアルでピントをあわせてシャッターを切る。それが楽しかった。使い込んだ。
社会人になって、父から譲り受けたものがある。
ライカのM7だ。
父の使っていたカメラはだいたい4種。
F3、OM4-Ti、LX、そしてM7
ただどこかで話した通り、私は社会人になってから仕事の忙しさを理由に写真・カメラからしばらく離れることになる。
M7を使いこなすほど触れていないことだけが私のなかでまだまだ心残りになっている。これはいつか解消しなくてはいけない。
父はもう写真を撮らない。
手元にはF3とOM-4Tiだけがおいてあるがフィルムは詰められていない。
私がGRⅢで写真とカメラに再度戻ったときに、父に話をした。「GRⅢはいいよ。親父も買うかい」父は答えた「フィルム時代から評判のいいカメラだったことは聞いていたよ。私はもう写真はいいよ。お前たちからプリントをもらうほうが好きだ」
でも時々孫を見ながらつぶやいている。
「時々モノクロで撮りたくなることがあるなぁ」
2022年12月、PENTAXがフィルムカメラを作る、という宣言をした。
父はその話を知らなかった。ネットニュースには疎い父だ。仕方がない
昨日それについて話したら、パっと目を輝かせた。
「ほんとか。新しく?レフレックスで?デジタルではなく35mmのフィルムでか?」
発表映像やインタビュー動画をiPadのYouTubeで検索して、見せた。
耳の遠くなった父は音量を大きくして、iPadに耳を近づけて聞いていた。イヤホンを使うのも忘れて、夢中で聞いていた。
父が楽しそうです。
「高いんだろうなぁ」と父が言う。
「フィルムも今や高いしね」と私も少し同調していう。でも父の嬉しそうな表情は変わらない。
「でもすごいなぁ。今から、フィルムか。すごいなぁ」
父が何度もつぶやく。
今から貯金するのも悪くない。
欲しいと思っていたFUJIFILMのX-T5を少し延期してでも、PENTAXの新しいフィルムカメラを買って父と2人であれこれ話すのも悪くはない。
そう思える週末だった。
じっと待つこと、を大人になってようやく覚えた【GRⅢ作例】
子供はびっくりするくらい泣く。
だっこをして欲しいとき、だめだと言われたことをして怒られたとき、おかわりが欲しいとき……etc.etc.
娘は一度泣き始めると癇癪のようになってしまうことが多くあり、そうなると会話するのが難しかったり、意固地になってしまう。
こういうときに、じっと待つ、ということが重要で、ようやくそれができるようになった。
でも考えてみれば大人も同じようなもので、私は子供への対応ができるようになったのではなく、ただただ人への対応がようやくできるようになったのだなぁと感じる。
そもそもじっと待つのは、「言うことを聞いてもらうため」ではなく「話をし始めるため」なのだ。泣いているのはすでに異常事態で、泣いている人は軽くパニックだ。そこに普段とは違う言葉が投げかけられ理解しているかを詰問される。「これはやっちゃダメだって言ったでしょ?わかる?」のような言葉だ。
怒られたから泣き始めたのに、泣いているときにはもう怒られている理由を考えたり理解するほどの余裕はない。泣いている、ということが頭のほとんどをパニック状態にしてしまっているのだと思う。
よく企業のマネジメント研修で声を荒らげて叱責してはならない、という指導がされる。これは間違っていない。が、理由としてハラスメントになるから、の一言だけで済まされているとそれは不十分だと感じる。もちろん相手の尊厳を傷つけてはならない、ということに異論を挟むつもりはない。
だが部下の育成に感情を載せた指摘をしてはいけないのは、それが非効率的だからだ。感情的に叱ると、その発せられた感情に部下は萎縮し、思考が麻痺してしまう。「怒鳴られている」ということ自体がパニックを起こし、脳は思考停止になってしまう。そうなるともう何を言っても無駄だ。何が良くて何が悪かったのか、反省することすらできなくなってしまう。
そうではなく、これがミスであること、望ましくない結果を出していることは指摘しつつ、相手がパニックにならないように指導をしなくてはならない。
子供相手でも同じだ。
パニックになっている人間に声を荒らげて叱ってはならない。それはパニックを加速させるだけなのだと思う。
子供は大人と比べればパニックになりやすい。なので、まずは落ち着かせる。大人は「落ち着いて」といえばだんだん落ち着くが、子供相手だとそれも通じない事が多い。
「新情報」だとパニックは加速してしまう。なので「旧情報」が有効となる。
私がこれに気づいたのは、友人が同意と共感を示して子供の気持ちを落ち着かせているのを見たときだった。
○○ちゃん、これやりたかったんだよね?
もっとこうしようって考えてたのかな?
これ、もっと続けたかったよね。
子供はとりあえず「うん」というだけでいい。そして自分の過去の行動が「旧情報」として出てくるので思考する必要がほぼない。そうやって会話しているうちに、子供が落ち着いてくる。
そうなって落ち着いてから「けどね、実はこれはダメなことなんだ」というのを落ち着いて伝えていく。こうすることでしっかりコミュニケーションがとれていた。
友人の子供への対応の仕方には非常に学びになることが多く隠されていた。
勉強になりました。
GRⅢはパーソナルスペースにいる人を撮るのに向いている【GRⅢ作例】
先日、夢の国ディズニーランドへいった。GRⅢを携えて。
妻はディズニーが好きで、結婚前から何回も行っていたので、いつの間にか私もディズニー好きになっていた。でもGRⅢを持っていったのは初めて。
以前CanonKissX7を持っていったことはあって、そのときは確かにそれなりのキレイな写真が撮れたなぁということは覚えていた。でも確かそれも一度だけで、それ以外は基本iPhoneのカメラで写真を撮っていたように思う。
なんでiPhoneかといえば、それが楽だったから。あと当時はGRⅢをまだ持っていなかったから。
私たちにとってディズニーは楽しむ場所であって、写真を撮る場所じゃなかった。だからとりあえず楽しんでいて、その流れでiPhoneで写真をとる、という感じだった。ちょっと大きな一眼レフだと私たちの「楽しむ」の流れを損なう気がしたんだよね。これはもちろん個人差があると思うけど。
一度CanonKissX7を持ち出したのは、娘の初ディズニーのとき。いわゆる「ファーストビジット」のときだ。この時は、明確に「娘の初ディズニーの記録を残すぞ!」という強い意志があったから。実際、大人が楽しむ、というよりは、思い出作りのほうが比重が重くて、私はカメラマンとしてついていった、といっても良かった。
で、今回。
今回は実は娘を保育園にあずけている間に妻と最後の二人きりデートでディズニーランドへ行った。妻は妊娠中であと数ヶ月もすれば第二子が産まれてくる。そうなったらきっと2人でどこかへ出かける、ということは向こう1~2年くらいは望めなさそう。
と、なったらこのタイミングを逃さず行ったほうがいいのかもしれない、と思い切った。
娘には秘密。ごめんよ。また必ず家族で一緒に行こう。
で、GRⅢ。
「楽しむ」を優先させながらキレイな写真を撮れるんじゃないかと思った。iPhoneほどぱきっとした完成されたキレイな写真ではなく、その場の空気感とかそういうのをうまくGRⅢなら写せるんじゃないかと。
このブログに人の顔が分かる写真は載せないことにしているので、必然的に物撮りの写真が多くなってしまうのだけれども、私はやっぱりGRⅢが好きだなぁと思った。
あ、と思ったときにすぐ撮れる。これはぶっちゃけiPhoneより速い。そしてシャッター音が小さい。相手に「いま撮ったで!」みたいなことを意識させにくい。「あ、撮ってるのね」ぐらいの雰囲気で写真が撮りつづけられる。
GRⅢはとくに広角なので、隣にいる妻、列で前に並んでいる妻を撮ることができた。これが40mmだと少しだけステップバックして撮るだろうなと思った。
やっぱりGRⅢはパーソナルスペースにいる人を撮ることに長けている、と感じた。
妻と私は久しぶりに手を繋いで、ディズニーを満喫した。
妊婦なので、激しいアトラクションをたくさん乗ることはさけ、キャラクターに会い、ゆっくりとした乗り物にのり、ワゴンで買い食いをして、そしてずーっと娘とこれから産まれてくる第二子の話をしていた。
幸せな時間でした。
そしてその幸せな時間をGRⅢで撮った写真を見直しながら妻とこれからも何度も思い出すのだと思います。
親の目線でカメラを構えて子供を追いかける【GRⅢ作例】
いつも子供追いかけている。
娘は1歳3ヶ月で掴まり立ちから歩けるようになり、どんどん走れるようになっていった。いまは3歳となりよく走っている。
保育園に通うときも、公園にいくときも、走る。ただ娘は甘えん坊なので、私といるときは「抱っこ」とせがむことが多い。比率は、抱っこ:走る:歩く=4:3:2くらいか。
歩いている比率はもっと少ないかもしれない。それくらいよく走っている。(それ以上に私と出かけるときは抱っこが多いのだけれども)
子供を追いかけながら写真をとるときに視点がいくつかある。
私が大事にしているのは、親の視点のまま写真を撮ることを恐れないこと。これは一見凡庸な写真のようで見えて、思い出深いものになると思っている。基本は少し見下ろしの視点だったり、表情が見えにくいような写真になることも多い。子供にフォーカスを当てるなら、少し腰を落とした子供と同じ目線の写真のほうがいいだろう。
でも親のこういった目線も今だけのものだから、ぜひ撮っておきたいと思うのだ。
いつも子供の背中を追っていたし、いつも子供の後頭部を眺めながら歩いていたのだ。それを時々写真を見ると思い出す。
きっとこれからもずっと思い出すだろう。いずれ娘も背が伸び、私と同じような目線になってくる。そうなったらきっとこの時期のこの写真を見て私は泣いてしまうかもしれない。
もちろん子供の表情は少しかがんだほうがよく見える。地面に落ちた葉っぱを真剣に触っているときなんかは地面側から写真をとったほうがその真剣な表情も映ってとてもいい。
でもそれはきっと子供の写真を撮りたいからかがんでいるのではなく、もともと親として子供がどんな表情をしているか気になってしゃがみ込むのだと思う。
だからこれもきっと親の目線だ。
子供のことが気になって、一緒にかがんで地面を覗き込んだり、ふっと横をみてどんな表情をしているかを確かめて、そうしてふっとした瞬間にシャッターを切る。
これが楽しい。
あとで写真をみたときに、愛おしさと何とも言えないむず痒い感情が呼び起こされる気が多い気がしている。
あとはGRⅢは広角なので、この広角らしい写真も好きだ。
子供が走っていき、青空のした、道の向こうに走っていく。
小さい存在が必死に足を動かして前へ前へいく姿を広角のレンズで周囲の風景と一緒に撮影する。この道でこんなに小さい存在が、ちょっとずつ小さくなりながらも走っていく姿を見る。
ああ世界は大きくて、うちの子はまだちっちゃいなぁなんて思ったりする。
距離が空きすぎると慌てて大人の歩幅で一気に追いつこうとする。
そうやって私は今日も子供のあとを追いかけながらシャッターを切っている。