子供と一緒に喜び合いながら生きていく
娘はゲラだと思う。
些細なことで笑って、体を折り曲げて笑い転げている。5歳になる甥っ子と3歳の娘に「だるまさんが転んだ」を教えていたら、いつのまにか道を転がる遊びに変化していた。「だるまさんが、だるまさんが、、、」といいながら走り抜け「ころんだ!」といって甥っ子が道に転がる。それをみて娘が爆笑する。体を折り曲げて笑い、すっと立ち上がって「ころんだ!」といって自分もそこで転がる。転がりながら笑ってしまい起き上がれない。二人してずっとそれを繰り返して笑っている。
(ちなみに洋服がしこたま汚れたため、甥っ子の母親である実姉には私がちょっと怒られた。)
子供が生まれて自分でも予想していなかった出来事として、私もゲラになった。
道の真ん中で30台半ばの大人が転がり始める勇気はなかったが、一緒に笑うことはできる。一緒にいる大人が笑っているのをみると、子供も安心してさらに大笑いを加速させていく。
この笑いや笑顔が倍々になっていくのが面白くって、子供が笑い始めると一緒に笑いながら意図的に目を合わせてみたりするようになった。お互い目があって、ちょっとフフっとしてから、あはははと大笑いがどんどん出てくる。面白い。最初はちょっとした笑顔だった大人すらも子供の笑顔につられて本気の笑いにどんどんなっていく。
子育てとは与える側面もあるし、与えられる側面もある。けれども、さらに「一緒に」という側面もあるのだと思う。矢印がお互いに向き合う関係とは少し違う。いうなれば同じ円のなかにはいるような感じ。
「笑い」という円のなかにはいって、一緒に笑っていると、私も子供の遊び仲間に入れてもらえた感じがしてとても心地よい。子供も仲間認識して、ある意味失礼なことまで言ってくる。「一緒に」が実感できると、「子供目線で」というような堅苦しい表現は消えて、いつのまにか同じものをみて、似たような感情を抱いていたりする。
そうやって私は「子供時代」の一部を追体験しているのかもしれない。
子育ての面白いのは、これかもしれない、と思う。もちろん私は30歳を超えたおじさんなので、本当に子供と同じ経験ができているとは思えない。ただそれでも一瞬でも「子供時代」の気持ちが、想像ではなく体感として体を通り抜けていくことがあるような気がする。
これは体感なのでもう論理的な説明なんかない。
そして私はただただその感覚が好きなのだと思う。そうやって子供と一緒に喜び合いながら生きていきたいと思う。子供が大きくなっても同じ気持ちでやっていけるのだろうか。それは子供が大きくなってから考えることにしようと思う。
シャッターを切る時に願っていること
子育てとGRというワードで検索するといくつか記事が出て、総じて読むとAFが甘いという話だった。たしかに動き回る子供に対してのオートフォーカスはもっとキビキビしたものが欲しくなるのかもしれない。
なんとなく考え方は2つもっている。
1つはGRの機能フル活用のパターン。フルプレススナップの活用だ。でも私はいつもF値を5.6以上にしていて、スナップモードでピントを固定2mくらいにしておく。そうするとフルプレススナップで近い距離での娘の活動にはだいたいピントが合うような気がする。でもまあこれはできたり、できなかったり。
もう1つは「もういっそのことピンボケも楽しんでしまおう」という気持ちだ。
GRを購入する前に、いろんな人のレビューを読んでいるときに「ピンボケも含めて楽しみましょう」という言葉があって、それがストンと自分の真ん中に落ちて購入に至ったと思っている。
人の心を動かす「ピントのあった綺麗さ」というのはあると思う。新海誠の映画における映像美のようなものは「美しい…」という感動を引き起こしていると思う。私は新海さんの描く夕焼けが本当に素敵な描写だと思う。
一方でそうじゃない人の心を動かすものもあると思う。ピンがボケていても、その瞬間の楽しそうな雰囲気がとれていれば、その写真に写り込んでいる楽しさだけで、人は心を動かされるのだと思う。そういう種類の描写もあって、そういうのも好きだなぁと思う。
「こういう写真の表現しか認めない!こっちのほうがいい!」というほどどちらかに寄っているタイプではないので、ある意味どんな写真がでてきても「おー!いい写真!」と喜べるのはお得かもしれない。
とはいえ、わざとAFを外すようなこともしないので、できるだけ枚数をたくさん撮ってピント合う写真が撮れるようにしてみたりもする。
そういう意味ではGRは私にとって「きれいにピントがあっていなきゃいやだ病」から脱却させてくれて、私をより「写真を楽しむ」という点において進化させてくれたカメラなのかもしれない。
カメラのシャッターを切りながら、願うのは「ピントがあっていますように」ということよりも「この楽しそうな表情や景色を切り取れていますように」ということだと思う。その思いがちゃんと写真に載っていると、それはピントが外れていてもとても素敵な写真になるんじゃないかなぁと思っている。
そういう意味で「あ!」と思った瞬間にカメラを起動して写真がとれるGRは最高のカメラだ。
(きっとその「切り取れる」確率がプロのほうが高いのだとおもうけれども、私はシャッターチャンスの多さでしばらくは勝負しようかな)
写真って一瞬をずーっと楽しめるから面白い
子供が生まれてから時間の流れが早くなった
年齢を重ねると時間の流れが早くなる、とはよく言う。これは新しく経験することが少なくなると時間の流れが早くなる、ということらしい。たしかに小学生のときには新しいことばっかりで1日がとっても楽しく、1年の思い出もたくさんあった。社会人になってからは気づくと3ヶ月、半年、1年が過ぎているということも多くあり、この言葉の真実味を実感する。
そんな30代なかばの私にとって子育ては「新しいこと」だった。育休を約1年とり、初めてやるおむつ替え、沐浴、調乳、ご飯づくり、寝かしつけ、ワクチン接種…。数えればきりがないほど、毎日が新しいことで溢れていた。
怒涛の「新しいこと」ラッシュで今度は逆に記憶が飛ぶほどだった。必死に色んなことに対応している間に、気づいたら娘は首が座り、寝返りをし、ハイハイを始めていた。
年齢を重ねると時間の流れが早くなる、というのは単純に記憶力が劣ってくるだけなのかもしれない。
必死になっていたときを必死にならなくなった時に思い出したい
そんな時に写真を見ていろんなことを思い出した。初めて沐浴させたときの娘の気持ちよさそうな顔、一方でへっぴり腰になっている自分。ミルクをあげているときの幸せな気分。ポジティブなことだけじゃない。夜泣き対応をして迎えた寝不足の朝、泣き声にイラッとしてしまったタイミング、育児の認識違いに夫婦で口論した時間。
写真はそういったことを思い出させてくれる。
面白いのは写真に写ってないことも思い出せてくれるところだ。
祖父が娘を抱っこしたときに私が感じた気持ち。娘が他の人の抱っこを拒否して自分のところまで必死に来たときの嬉しかった気持ち。この食事を食べているとき妻はどんな表情をしていたっけ。
一瞬で過ぎてしまったことを、あとから思い出させてくれる。呼び起こしてくれる。
別に「この写真からどんなだったかを思い出しなさい」というタスクにならない、ということも重要だ。写真をみた瞬間、同時多発的に色んな情景や感覚が呼び起こされる。その動きは私にとってとても心地よい。
だから私は写真が好きなんだと思う。
心地よさの正体は、追体験できることと同時に、自分の状況を冷静に見返せるからだと思う。思い出にも浸れるし、あのときは必死で気づかなかったけど、これはこれでこういう機会だったのだなぁと冷静な気持ちでみることができる。自分の人生に再度新たな一面を見出したり、忘れかけていた何かを再確認したりすることができる。
そうやって何か私は自分の人生に強度を持たせているのかもしれないなぁと思う。
いや、そんなに毎日深く考えているわけではないんだけれども。
写真を見返すだけで「いいなぁ」という気持ちになれる毎日って結構幸せだと思う。そういう日々の幸せの重ね方がたぶん私は好きなんだと思う。
我が家ではカレーパンマンとシンデレラとミニーが一緒に住んでいます
娘は最近ごっこ遊びが好きである。すぐに別のキャラクターになりきった受け答えをする。ディズニーであればミニーからエルサ、アンパンマンであればドキンちゃんにも食パンマンにもなる。
やっかいなのは人にもごっこ遊びをナチュラルに当てはめてくることだ。「あたしミニーよ」といった3秒後には「ねえミッキー?」と30代の父親に問いかけてくる。
こうなるともう乗っかるしかない。ここで乗っからないのは父親ではない。精一杯声を裏返しながら「なんだいミニー?」と返す。最近ちょっと喉の調子が悪いので、裏声をするとむせてしまいそうになるが、それを必死に抑え込む。
やっかいなのはこれが時を選ばずに開始されることだ。そしてこの遊びに父親が初期のころからナチュラルに対応しすぎたのがよくなかった。すでに娘にとって、ごっこ遊びを振れば親は必ず応えてくれるものになっており、対応してくれないと泣くのだ。「ミ゛ッ゛キ゛ー応えてよ゛お゛お゛お゛お゛」といった悲痛なぐずりが始まる。
私はリモートワーカーであり、保育園のお迎えは17時に私が行っている。そして保育園のお迎えのあとも仕事を1~2時間するのだ。娘はできるだけ妻が見てくれているものの、そうもいかないときがある。
その日はカレーパンマンだった。
部長のいるリモート会議で乱入してくる娘。幸いカメラはオフだった。「ねえ、カレーパンマン、バイキンマンをやっつけにいかない?」という軽やかな声はおそらくノイズキャンセリングのヘッドセットによってカットできたはずだ。一旦表情だけで今は仕事中であることを伝え、退室を促す。「ねえ、カレーパンマンってばあ」あかん、始まった。「カ゛レ゛ーバン゛マ゛ン゛~~~」これはマイクもノイキャンできない。素早くマイクのスイッチを切ってお話をする「ごめんね、カレーパンマンちょっとお仕事してるんだ」「何してるの?」「カレー作ってるんだ。もうちょっと煮込んでから一緒にバイキンマンやっつけにいこうか」「じゃあ先にアンパンマンと一緒に行ってるね」娘の手の中にはアンパンマン人形があった。あなたは誰だ?ミニーがバイキンマンをやっつけにいくんだろうか「うんお願い」セーフ。
さて、マイクスイッチをもとに戻して…
部長「カレーパンマン大変だなぁ」
スイッチ・オフになってなかったよね。そういうコトってあるよね。
ちなみに妻はシンデレラ。「ねえ、シンデレラ?」と問いかけられることが多い。なんかいいな。私はカレーパンマンかミッキー。まあ悪くない。
残念ながら妻も四六時中娘と一緒にいられるわけではない。「ちょっとトイレ行ってくるね」「…えっ…娘ちゃんも一緒に行く!」「いや、トイレはひとりでさせて」バタン
「うわあああああ~ん、シンデレラぁあああ」
慌ててフォローに入る。「娘ちゃん、娘ちゃん、シンデレラもトイレに行くときあるのよ」自分の発したパワーワードに笑いそうになる。「やだああああ、シンデレラあああ」とトイレのドアにすがりつく自称ミニー。「シンデレラああああ、おしっこ?うんち?」やめなさい「トイレ!!!」中から妻が叫ぶ。よかった一線は守られた。
我が家ではカレーパンマンとシンデレラとミニーが一緒に住んでいます。